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SPECIAL | 梅コネ 特集

まちレポ第5弾 梅田ってどうやってできた?

梅田地区の成り立ち

大阪の大部分はかつて、河内湾と呼ばれる海の中にありました。しだいに、河内湾は海退していき、現在の大阪の姿に変わっていきますが、なかでも特に梅田と呼ばれる周辺の土地は、約6,400年前から長い時間をかけてかたちづくられたと言われています。その大きな要因は、いわゆる「梅田粘土層」と呼ばれる縄文時代の粘土層の上に、大阪湾に流れ込む河川のうち、主に淀川が運んだ砂が徐々に堆積したことであり、梅田一帯は低湿地帯となっていきました。今のような綺麗な楕円形の大阪湾になったのは、大阪湾に流れ込む河川の三角州と湾内の海流や湾の埋め立ての結果だそうです。大小さまざまな河川による「水の都」と呼ばれる大阪のまちですが、古代に思いを馳せてみると全く違った景色があったのですね。

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「埋田」という地名が誕生する

湿地帯だった梅田周辺は、稲作のためにその土地に住まう人々により次第に湿地の埋め立てがなされ、田園地帯となります。埋め立ててできた田んぼに由来して「埋田」が誕生したと言われています。現在のグランフロント大阪があるあたり一帯の「大深町」の由来も田園地帯の中でも特に泥が深いことから「大深町」となったと言われており、当時の名残をとどめています。
今でこそ梅田は関西一円のターミナルエリアとして有名になっていますが、明治30年ごろまでは稲作が行われる田園地帯だったというから驚きです。
(参照:大阪都市協会『北区史』 1980年 北区政一〇〇周年記念事業実行委員会)

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地区内に咲いていた梅の花を参考に「梅田」という地名に!

時代はさかのぼって梅田周辺が海と近かった頃の平安時代初期の昌泰4年(901年)、菅原道真公が無実の罪をきせられ九州大宰府へと左遷された際、この地で今を盛りと咲いていた紅梅をご覧になられるため、船と陸をつなぐ綱を円座上に敷き寄せられたことから、現在も梅田の中心に位置する綱敷天神社の名が興りました。またその時に、菅原道真公が愛したその梅は、後に梅塚と呼ばれるようになりました。
一説によると江戸時代に、埋め立てた田では語義が悪いため、この菅原道真公の愛された梅塚に所以して「埋田」が「梅田」に変化したと言われています。
(参照:綱敷天神社 白江氏系図書)

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国鉄大阪駅誕生により次第に梅田が大阪の交通の要衝へ

明治時代に移り、新政府の実力を広く国民に示すため、東西両京を結ぶ鉄道建設の基本方針が決定されました。
大名制度廃止に伴い、まとまった土地があることを背景に、大阪駅は現在の堂島周辺に設置予定でした。しかし、利権関係や周囲の反発の声があったこと、神戸~大阪間建設の際、さらに西に鉄道を伸ばす構想が生まれたため、従前の終端駅形式から通過駅形式とする案が採択されたことにより、設置場所は現在の西梅田エリアに変更されました。一帯に田んぼが広がる中で、1874年に開業した大阪駅は当時ではまれなレンガ造りの近代的な建物であり、汽車自体が珍しいものであったため、「梅田すてんしょ」と親しまれ、たちまち人気をさらい、大阪随一の名所にまでなりました。
その後、梅田地区には阪神や阪急が乗り入れをはじめたことにより、まちがつくられ、発展し始めていくのです。
(参照:『大阪駅の歴史』 大阪ターミナルビル㈱ 駅史編集委員会)

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